京都で花魁体験を10倍楽しむ為に

吉原について

花魁体験の写真館が京都にたくさんある為、吉原という遊郭が京都にあったと思っている方もおられますが、吉原は京都ではなく江戸にありました。現在のJR丹波口駅の近くに、島原という花街がありました。現在も、入口にあたる場所には島原大門が残されておりますので、興味のある方は行かれてみてください。吉原は、今で言う浅草の浅草寺の裏にありました。妓楼(ぎろう)という、花魁さんがいるお店が吉原の中には200件以上もあり、そこには3,000人とも言われる遊女が居たそうです。吉原の敷地内には、遊女だけではなく、一般の商人なども含めて約10,000人が暮らしていたと言われています。男性は見物客も含め、自由に出入りする事ができるが、女性の場合は、通行証を持っていないと大門を出入りする事が出来なかったそうです。また、遊郭の店内には武器になるものを持ち込むことが出来なかったそうで、刀を預けて入店していたそうです。尚、吉原遊郭は、旧吉原と新吉原に分かれます。浅草寺の裏にあったのは新吉原で、旧吉原は、現在の日本橋人形町にありました。駿府城という、徳川家康が没する1616年まで政治や経済の中心地として繁栄した城(現在の静岡市)の城下にあった二丁町遊郭から、一部が移されたのが始まりだとされています。元吉原は、江戸の大半を焼いた大火事である明暦の大火により、浅草寺裏の日本堤に移転したそうです。戦乱の時代が終わり、浪人が仕事にあぶれてしまう時代だったこともあり、江戸に住む男女の比率は、男性の方が多く、そういった時代背景により、遊女屋が江戸に点在していったそうです。江戸が繁栄していくとともに、大名の江戸屋敷も拡大し、その屋敷は旧吉原に隣接するほどになりました。1656年に江戸幕府が、吉原を移転させるよう命じました。その候補として、墨田区か、浅草寺裏が提示されていたそうです。吉原は日本橋人形町のまま営業を続けていく事を望みましたが、その願いは聞き入れられることなく、最終的に、いくつかの許可をふまえて、浅草寺裏への移転となりました。その時の条件として、吉原が営業できる土地の広さを5割増しにすること。夜の営業許可を出すこと。風呂屋者を抱える風呂屋(遊郭のライバル的な存在)を200軒取り潰すこと。周辺で起きる火事や祭りへの対応を免除すること。15,000両を受け取ること。この条件のもと、移転する事となるのですが、この条件には問題もあったようです。周辺の火事への対応をしなくてよいという条件について、木造建築で家同士がくっついていた江戸の火事は燃え広がりやすく、その対応に追われる事なく営業できる事は吉原にとっても特別な条件だったと思います。只、逆に吉原で起きた火事に対して、周りの家々も助けてくれることはなく、吉原が全焼してしまう場合が多かったそうです。移転の命令が下された翌年に、江戸三大火といわれる明暦の大火がおこりました。江戸の街の大半を焼いてしまう大火事でした。正月に起きた大火事でしたが、その半年後には新吉原に一部の遊女屋が移転し、その翌年、取り締まりにより、遊女512人が検挙され、新吉原に移されることとなります。同じ吉原遊郭の中でも、この時に移された遊女は、京都の伏見にある墨染遊郭や、や大阪の堺にある乳守遊郭出身の者が多かった為、郭内に「伏見町新道」や「堺町新道」と呼ばれる区画があったそうです。明治以降は、徐々に遊郭から芸者の居る花街に社交場所が移っていった為、吉原遊郭は縮小していきます。更に、1957年に売春防止法が可決成立したことにより、一時代を築いた吉原遊郭の終わりとなります。