老若男女問わず多くの人々を魅了し、幕府公認の遊郭・吉原。そこで働く遊女たちは華やかで美しい遊女たちの中でも人気が高かった2人の遊女「薄雲太夫(うすぐもたゆう)」・「高尾太夫(たかおだゆう)」を逸話付きで紹介させて頂きます。
薄雲太夫
薄雲太夫の逸話には招き猫発祥のものがあります。
薄雲太夫は1匹の三毛猫をとっても可愛がっており、常に行動をともにしていました。そのうち、花魁道中にも三毛猫を参加させるほどで、周りからは猫に取りつかれたとささやかれるようになりました。
ある日、厠(現在で言うトイレ)に入ろうとした薄雲太夫のそばを離れない三毛猫を、見かねた楼主が短刀を抜いて猫の首をはねました。その首は宙を飛び、厠の下で薄雲太夫を狙っていた大蛇の喉首に噛み付いたそうです。
三毛猫は、薄雲太夫を助けようとしていたのですが、殺されてしまいました。
薄雲太夫は三毛猫の死を深く悲しみ、そして三毛猫がかわいそうなので長崎から取り寄せた伽羅の銘木でこの猫の姿を刻んだものを作ったそう。それが今で言う招き猫の発祥だと言われております。
高尾太夫
2代目高尾太夫は、万治年間に仙台藩主の伊達綱宗(だてつなむね)に見染められ、身請けされました。
その時自分の体重と同じ額と、装身具も含んで八貫分の衣装という大金で身請けされました。体重分の金を払うということでしたので、高尾太夫の雇い主は、店中のありとあらゆる着物や飾り物を彼女につけさせて、体重測定を行ったところ、身請けの総額はなんと、5億円にも上ったと言われております。
そして、身請け当日吉原の遊女2000人を貸し切って宴会が行われました。
しかし、高尾太夫は鳥取藩士の島田重三郎が好きだったため、身請けのあと半年間経っても伊達綱宗とは、交わらなかったそうです。 殿様に従わなかったため、その後、部屋に幽閉され1日1本10日で10本の指を落とすといわれても、かたくなに拒みました。
伝えられている話では、万治2年12月綱宗公は高尾太夫を船に乗せ大川(今の隅田川)を下っていたところ船の中で、仙台で一緒に暮らそうと誘いましたが、高尾太夫は誘いに乗らず、殿様が大金を積んだにも関わらず、高尾太夫はやっぱり従いません。呆れた殿は抵抗する高尾太夫を裸にすると、逆さづりにして切り殺したといわれています。
今回は、2人の遊女をご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか? 遊女たちの人生は華やかですが儚く、まだまだ沢山の遊女たちの人生が気になります。 このように江戸を生きた遊女達は今も尚語り継がれており、現代の私たちにも 勉強になる何かがありますよね。
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