菅原道真、平将門、崇徳天皇の怨霊は「三大怨霊」と呼ばれています。皆、悲劇の死を遂げてしまい、その後に数々の奇怪な現象が起こったことから、そのように呼ばれるようになりました。
今回はその中で、京都最恐の怨霊と称される「崇徳天皇」(すとくてんのう)の怨霊についてご紹介していこうと思います。
崇徳天皇の生誕
崇徳天皇が生まれたのは元永2年(1119年)5月28日。父は第74代鳥羽天皇で、系図上でもちろん親子にあたります。
まず天皇の即位の順番です。
白河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇
白河上皇は崇徳天皇をとても気にかけており、崇徳天皇が3歳ぐらいになると、鳥羽天皇を強引に退位させ、鳥羽天皇(父)の譲位により5歳で即位させます。
鳥羽天皇は退位させられた白河上皇に対して恨みを持つようになり、また崇徳天皇のことも「叔父子(おじご)」と呼び、忌み嫌うようになりました。
鳥羽上皇の罠
崇徳天皇が10歳の頃、白河上皇が亡くなると、父の鳥羽上皇が実権を握り始め、鳥羽上皇の子である近衛天皇を即位させます。この時、近衛天皇はわずか3歳、鳥羽上皇が受けた屈辱を崇徳天皇にも与えました。
鳥羽上皇は崇徳天皇に近衛天皇を養子にすることを勧めます。崇徳天皇は天皇の「父」ということで、政治に関与していけるからです。そして、崇徳天皇は近衛天皇に王位を譲りました。
しかし、ここには鳥羽上皇の罠があり、天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」(こうたいてい)と書かれていたのです。
つまり近衛天皇は崇徳天皇の「子」ではなく「弟」ということであり、崇徳天皇は政治を行えなくなってしまいました。
保元の乱
近衛天皇は病弱だったために、17歳という若さで亡くなります。近衛天皇には後継ぎがおらず、崇徳上皇はチャンスが回ってきたと思いました。崇徳上皇は、自身の子、重仁親王を即位させることを望みます。
しかし、ここでまた鳥羽上皇の登場です。
鳥羽上皇は崇徳上皇の弟でもある、29歳の後白河天皇を即位させてしまいます。このことがきっかけとなり、後白河天皇と崇徳上皇が争いを始め、1156年に「保元の乱」(ほうげんのらん)が起こりました。
最後まで受けた父の恨み
保元の乱の最中、鳥羽上皇が亡くなります。
崇徳上皇は、最後はやはり父である鳥羽上皇を見舞いたいと訪れますが、対面を果たすことは出来ませんでした。鳥羽上皇は、自分の遺体を崇徳天皇に見せるなと言い残していたのです。鳥羽上皇の恨みは相当なものだったのでしょう。
崇徳上皇が怨霊になった理由
保元の乱は後白河天皇方が勝ち、当然負けた崇徳天皇と仲間達はそのままの立場ではいられません。トップの崇徳上皇は讃岐国(現・香川県)に流罪、崇徳上皇についた公家や武士も、軒並み実権を失うか斬首という厳しい措置がとられました。
その後、崇徳上皇は讃岐国で仏教を心の拠り所とし、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)のお経を書き写しました。そして乱の犠牲者の供養と自らの反省を表すため、「私の代わりに、この写本を京の都に収めてもらえないだろうか」と後白河天皇に頼みます。
しかし、後白河天皇は「呪いがかかっているのでは」という身も蓋もない言い方で写本を受け取りませんでした。これには崇徳上皇も激怒し、舌を噛み切ったその血で国を呪う事を写本に書き足し、亡くなってから怨霊になったと伝えられています。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向(えこう)す」
江戸時代には、物語のネタとして崇徳上皇の怨霊が使われるようになり、怨霊伝説が定着していきました。
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