吉原は、今で言う浅草の浅草寺の裏にありました。妓楼(ぎろう)という、花魁さんがいるお店が吉原の中には200件以上もあり、そこには3,000人とも言われる遊女が居たそうです。吉原の敷地内には、遊女だけではなく、一般の商人なども含めて約10,000人が暮らしていたと言われています。男性は見物客も含め、自由に出入りする事ができますが、女性の場合は、通行証を持っていないと大門を出入りする事が出来なかったそうです。また、遊郭の店内には武器になるものを持ち込むことが出来なかったそうで、刀を預けてから入店していました。
✓妓楼(ぎろう)…遊女をおき,客を遊ばせる店。青楼、女郎屋、遊女屋と同義。
✓遊郭(ゆうかく)…公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。
吉原遊郭の所在地
吉原遊郭は、歴史上で旧吉原と新吉原に分かれます。
旧吉原
旧吉原は江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にありました。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
新吉原
明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転します。
✓明暦の大火…明暦3年に江戸の大半を焼いた大火事。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
旧吉原から新吉原へ
戦乱の時代が終わり、浪人が仕事にあぶれてしまう時代だったこともあり、江戸に住む男女の比率は、男性の方が多く、そういった時代背景により、遊女屋が江戸に点在していったそうです。江戸が繁栄していくとともに、大名の江戸屋敷も拡大し、その屋敷は旧吉原に隣接するほどになりました。
1656年に江戸幕府が、吉原を移転させるよう命じました。その候補として、墨田区か、浅草寺裏が提示されていたそうです。吉原は日本橋人形町のまま営業を続けていく事を望みましたが、その願いは聞き入れられることなく、最終的に、いくつかの許可をふまえて浅草寺裏への移転となりました。
その条件は、吉原が営業できる土地の広さを5割増しにすること。夜の営業許可を出すこと。風呂屋者を抱える風呂屋(遊郭のライバル的な存在)を200軒取り潰すこと。周辺で起きる火事や祭りへの対応を免除すること。15,000両を受け取ること。計5つの条件でした。
この条件のもと、移転する事となるのですが、この条件には問題もあったようです。一番の問題点は、周辺の火事への対応をしなくてよいという条件により発生しました。吉原にとって、木造建築で家同士がくっついていた江戸の火事は燃え広がりやすいので、その対応に追われる事なく営業できる事は特別な条件だったと思われます。只、逆に吉原で起きた火事に対して、周りの家々も助けてくれることはなく、吉原が全焼してしまう場合が多かったそうです。
吉原遊郭の終わり
移転の命令が下された翌年に、江戸三大火といわれる明暦の大火がおこりました。江戸の街の大半を焼いてしまう大火事でした。正月に起きた大火事でしたが、その半年後には新吉原に一部の遊女屋が移転し、その翌年、取り締まりにより、遊女512人が検挙され、新吉原に移されることとなります。同じ吉原遊郭の中でも、この時に移された遊女は、京都の伏見にある墨染遊郭や、大阪の堺にある乳守遊郭出身の者が多かった為、郭内に「伏見町新道」や「堺町新道」と呼ばれる区画があったそうです。明治以降は、徐々に遊郭から芸者の居る花街に社交場所が移っていった為、吉原遊郭は縮小していきます。更に、1957年に売春防止法が可決成立したことにより、一時代を築いた吉原遊郭の終わりとなります。
✓江戸三大火…明暦の大火、目黒行人坂の大火、丙寅の大火
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