京都には現在花街という舞妓・芸妓遊びのできる店を中心に形成された区域があり、その名称を花街(かがい・はなまち)といいます。現在京都には、上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の5つの花街があり、京都花街組合連合会に加盟する5地区を総称して五花街と呼んでいます。
※京都五花街の一つ宮川町には、京都ココログループ「心-花雫-」もあります。
かつて、その五花街以外にもう一つの花街がありました。それが島原という街です。正式名は西新屋敷(にししんやしき)といい、場所は京都駅から北西に位置する所にあります。島原は1976年まで京都花街組合連合会に加盟していました。島原は主に皇族や貴族を中心にもてなした花街で、当時女性に与えられた最高の位・大夫を授けられた者が活躍した街です。今でも大夫は存在するものの、ほんの4,5名ほどになっています。
現在の島原は揚屋(今の料亭にあたる店)の【角屋(すみや)】と置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の【輪違屋(わちがいや)】、そして島原入り口の【大門】の三箇所がわずかに当時の名残をとどめています。
島原という名称の由来…幾度か場所の移転が命ぜられており、その移転騒動が「島原の乱」の乱れた様子に似ていたためについたという説があります。
島原大門
島原大門は日本最古の公許遊廊島原の正門で花屋町通にあり、門前には通称「出口の柳」、「さらば垣」があります。 以前はこの島原全体が堀で覆われており、この大門を通ってしか出入りできなかったといわれています。理由としては、周囲を堀で囲い一か所大門を作ることで、治安の確保と遊女の逃亡を防ぐといった目的があったようです。
さほど大きくはありませんが、現大門は幕末の最後の慶応3年に建てられており、この下を幕末の志士や新選組などが歩いたかと思うと感慨深いものがあります。
輪違屋(わちがいや)
現在は置屋兼お茶屋として毎日営業しているが、お茶屋を始めるまでは太夫や芸妓を抱える置屋のみだったそうです。日本で唯一「太夫」を抱える店でもあります。 家紋には輪違い紋が用いられ、外敵からの侵入を防ぐ為に二回の屋根には竹が設置されています。
過去に一般公開されたこともありますが、通常は非公開なので中に入ることはできません。建物の中には桂小五郎筆の掛け軸や、新撰組の近藤勇の書を屏風に仕立てたもの、また太夫の打掛等がかけられているそうです。またこの輪違屋の抱えだった桜木大夫は伊藤博文と馴染みを重ねたと言われています。
角屋(すみや)
置屋から太夫や芸妓を呼び、歌舞音曲の遊宴を行うところです。現在の料理屋・料亭にあたる場所で、平成十年度からは「角屋もてなしの美術館」として期間を設けて公開されています。展示品には松尾芭蕉をはじめとした俳句をしたためた短冊、与謝野蕪村が描いた紅白梅図屏風が展示されています。奥に進むと松の間があり、新撰組のエピソード話などガイドの方から建物や歴史などの説明も聞くことができます。
各藩の大宴会も行われていましたが、幕末になると角屋は勤皇派の久坂玄瑞や西郷隆盛、坂本龍馬などの密議にも使われていました。明治維新後は、大型宴会の重要がなくなっていったことと、足場の悪さもあり、島原の町全体が衰退していきました。それ以降は祇園が京都花街の主役に取って代わっていきました。
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